マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。この新訳が出たことを院生から教えられて、さっそく買い求めた。少し読みはじめてみると、噂に違わずとても読みやすい。これからは学部のゼミでも、この中山元訳(日経BPクラシックス版)を使わせていただくことにしよう。それはそうと、『プロ倫』には印象的な名言、名句があちこちに埋めこまれている。もっとも有名なフレーズは、「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間」(中山訳)であろう。ウェーバーは、資本主義の勝者を「信念を捨てた専門家と、人情味のないエゴイスト」という合理主義的な人間像で描きあげた。
ところで、最近の市場調査では「WEB調査」が約50%を占めているという。昨年11月、東京・如水会館で開催された「社会調査協会シンポジウム」で、(株)インテージの長崎貴裕氏が、そう報告されていた。WEB調査とはいうまでもなく、モニター組織を構築し、WEB画面上で回答してもらうインターネット調査のことである。反対に、調査者が調査票を持って調査対象者を訪問し、対話形式で行う「訪問調査」、こちらは市場調査からどんどん姿を消しているようだ。長崎氏の会社では従来、新入社員に訪問調査のトレーニングを行ってきたところ、社内でケンケンガクガクの議論の末、これをついにやめることにしたという。時代は変わった――氏の講演を拝聴しながら、私はそう感じた。調査者と調査対象者の間の物理的距離はもちろん、社会心理的距離もどんどん遠くなる。
「調査方法は目的に応じて使い分けられなければならない」。これが私の持論である。だから、WEB調査も頭から否定されるものではない。場合によっては有効な手段となるだろう。また、営利会社が効率性を基準に訪問調査をやめることも無理はない。だが、いや、そうであればなおのこと、大学教育ではこれを断固死守する必要があるのではないか。
社会調査の本質は「対話」にある。この点で、量的調査と質的調査に本質的な違いはない。どういうことかというと、「このことを知りたい」という調査者の明確な目的意識から生まれる真っ直ぐな気持ちが相手に伝わらないことには、(タダ同然で)人の心を動かす――「そういうことなら、しばらくつきあってやろう」――ことなどできるはずがない。ウェーバーの言葉をかりるならば、「精神と魂」の交感が社会調査を実り豊かなものにする。しかし今日、この交感がある調査が減り、ない調査が増えている。
学生はメディアに敏感だ。だから、WEB主流という市場調査の動向がキャンパスにむやみやたらに波及することを警戒しなければならない。かれらが「社会調査は効率第一」という合理主義に偏った調査観をもって社会に出ると、みんなが迷惑する。同じWEB調査をやるのでも、「対話」という調査の理念をもってやるのと、もたないでやるのとでは雲泥の差がある。調査会社が新入社員教育から訪問調査を外すのならば、それを補えるのは大学教育しかない。そういう理屈でもある。
以上の意味で、このオピニオン欄に2月に投稿された飯田浩之先生のご意見に、私は賛成である。