統計数理研究所では、設立のころから、公式、非公式とさまざまな形で「統計相談」が行われている。昨年からは統計思考院という部署ができ、「共同研究スタートアップ」として形を変えてはいるが、業務の一つとして統計に関わる相談を受けている。統計数理研究所で「統計相談」に関わった経験から気づいたことを述べたい。
持ち込まれる相談の内容はさまざまである。初歩的、教科書的な問題で、簡単なアドバイス程度ですむ問題もあれば、相談者の要求水準が非常に高く研究の必要なレベルのものある。相談者の思い違いで、統計の知識が不十分なために問題の解決ができないのであり、統計の専門家に聞けばすぐに問題が解決すると思い相談に来るケースが結構ある。実は抱えている問題そのものが難しい問題で、既存の手法では解決ができない問題であることに気付いていない。しかし、実際に説明を聞くと、既存の統計手法の枠組みでは解決できず解析対象を深く研究した上で適切な手法の開発が必要となり、統計学の専門家と他分野の研究者との「共同研究」が必要になることもある。現実の問題に関わったことから発展した良い例として、林知己夫の数量化理論や赤池弘次のAICがある。これらは、現実に解決したい問題があって開発あるいは提案されたものである。例えば、質的データの解析手法として知られている林の数量化理論は、戦後間もない頃の拘置所事情から必要となった「仮釈放の研究」が一つのきっけとなって考案されたものである。
「統計相談」に関わっていると調査に関係したさまざまな相談を受ける。調査の設計の段階で相談されたのなら良いのだが、終わった後で、調査に関わった人たちから相談を受けることがある。その内容は、“思ったような結果にならなかった”、“検定したが想定した有意差が出なかった”、“集計ではつまらないので何か新しい手法がないか”、から“回収率が低いけれどどうしたらよいだろうか”、などさまざまである。これらは事後の相談であり、“こんな項目について質問すれば良かったのでしょうが”とか“催促はしてみたのですか”などとアドバイスできるなら良いのだが、たいていは“あとのまつり”である。
一方、調査の計画段階での相談も受ける。“今まで全数調査をして集計をしていたのだが、集計の費用がかさむので標本調査に切り替えたい/標本はどの程度あれば良いだろうか”というような“良くある質問”から、“区民の意識調査のために、多くの区民が利用している○○駅前でアンケート用紙を配ろうと思うのだが良いだろうか/代表性には問題がないだろうか”、といような少々考えさせられる相談もある。2番目の例などは、上司にアンケートをとるように言われ、自分でもおかしいと思っているが上司の提案を否定できるほどの(いろいろな意味での)力がないので、外部の専門家に否定してもらいたいと思って相談にきたのではないかと思える例である。
今までの例は、何らかの意味で調査関係者からの相談である。調査関係者ではなくマスコミなど調査結果の利用者からの相談もある。直近の例に、東京都某区で行われた住民意識調査についてのマスコミからの問い合わせがある。いきなり、「某区の意識調査では回収率が約50%であったが、これこれについて回答者の80%が賛成と答えた。この結果から住民の80%が賛成と言って良いだろうか」。データが全くない状態での、突然の電話での問いである。サンプルサイズ、回答者数、計画標本の属性分布、回答者の属性分布等、基本的な情報がないと何ともいえないので簡単には答えられないと伝え、その後送られてきた各種集計結果と自分で集めた某区の人口分布等の情報を組み合せた上で、回答者の分布が圧倒的に65歳以上に偏っており、住民の年齢分布はまるで反映されていないこと等のコメントをした。実は、このような情報なしでの突然の質問が行政の担当者や企業の関係者からも寄せられることがある。
上記の話には、後日談がある。放送ではどのような内容になるのか気になったのでこの番組を見た。賛成者の意見、反対者の意見などを紹介したあと調査結果について、行政の担当者に「回答者が高齢者に偏っていると」言わせる展開になっていた。気になったのは、反対者へのインタビューで、「住民のなかの○○%の回答で、住民の意識がわかるか」という意味のことを言わせていることである。「偏ったサンプルで。。。」ということで信用できないならば良いのだが、良く設計された調査で回収も理想的ならば、たとえ数千人の調査でも、それなりの精度で結果が得られるということを、全否定することになりかねない。これが問題だと思う。
物理の法則を発見したり、理論を実証するには実験を行いさまざまな測定をする。「調査」は、社会現象を客観的に測定するための実験装置の役割を担っている。何を測るかを吟味した上で実験装置が準備される。計画がしっかりしていて、良く設計された実験装置であれば、精度の高い結果が得られるのだということを、マスコミや行政のみならず、多くの人々に知ってもらい、「数千人の調査で○○がわかってたまるか」というような誤った認識を払拭してもらう努力が必要ではないかと思う。