おそらく、あまりにも多くの社会調査が行われているためだろうが、世の中の多くの人は社会調査を「軽く」考えている。社会調査などというものは、その気になれば誰でも簡単にできることで、とくに難しいものではない。専門的な訓練を受けて、高度な技術を身につけなくても、質問文を作って、適当に配布して回収し、エクセルか何かで集計すればいい。そうしたものだと見なされている。
学問や教育の世界にも、こうした見方が蔓延している。大学では、授業評価と称して学生からアンケートをとったり、大学評価の資料として教員の研究状況についてアンケート形式でデータを集めたりすることが増えているが、その際、そうしたアンケート調査の企画や担当に社会調査の専門家が加わっていないことが多い。これはおかしなことだ。国立大学では、学内に建築物を建てる際、その設計を大学内の建築学科の教員に委託することが多い。文学部の建物だからといって、文学部の先生に頼むことはない。しかし、調査に関してはまさにそうしたことが日常的に行われているのである。
学問研究の多くの分野で、社会調査は重要な役割をはたしている。それは、社会学や社会学に近い学問に限られない。経済学が扱うさまざまな統計データは、基本的に、社会調査を通じて収集されたものだ。保健医療の分野でも、厚生労働省を中心とする膨大な官庁統計の多くが社会調査によってえられている。しかし、そうしたデータを用いて研究する当該分野の専門研究者は、必ずしも自らの手で調査を行ってデータを収集するわけではない。そのため、えられたデータがじつは「質問文」の文章や選択肢、調査票の構成のしかた、サンプリングのしかたなどによって影響を受けている可能性について、無自覚であることが多い。
ここで重大だと思うのは、経済データの分析や保健医療データの分析は、しばしば政府の政策決定のための資料として使われるという点である。むろん、学者ではなく、官庁の役人がおこなっているものも多い。しかし、そうしたデータ収集のための社会調査の企画に、社会調査の専門家が加わることはほとんどない。
この現状は明らかに間違っている。今日の社会にとって、社会調査はまさに道路や通信や電力と同じように、重要な社会資本をなしている。その形成に際して、専門的知識や研究者が適切に関与しなければ、間違った政策決定に導かれる危険が大きいのである。社会資本としての社会調査がきわめて専門的な性格のものであることを、もっと広く知ってもらう必要がある。