廃学になってから30余年を経過した東京教育大学は、(現筑波大学)といった注釈付きで言及される。しかし、筑波大学は東京教育大学の廃学を契機として新設された新構想大学であって、両者の間に制度的な継承性はないから、「現」は事実に反する誤伝ないし誤記である。今や廃・東京教育大学のことは人々の記憶からも払拭されようとしているが、その社会学教室は日本の社会調査教育の1拠点と目されていたように思われるので、活動期の実情をここにいささか回想し、事績がまったく湮滅に帰するのに抗したい。
東京教育大学社会学教室は、有賀喜左衛門・岡田謙・中野卓・森岡清美の4名をスタッフとして1949年に開設され、後に安田三郎・間宏が加わった。1、2年生で教養および社会学基礎教育を終えた後、3年生で前後期とおして必修の調査実習をとり、それを踏まえて4年生で卒業論文を書くという、調査実習を核とする教育システムを組んでいた。
調査実習科目の開設は東京大学社会学教室にならったようである。最初の5年間は有賀氏の専担で、中野氏と森岡が調査地に随行して補佐した。夏休み中に1週間、10人前後の学生を農村へ連れていき、現地の寺院や公共施設に頼みこんで宿泊させてもらい、おもに調査票によって部落全世帯を調査する現地調査が、1年にわたる調査実習の核心であった。有賀氏の社会調査手法は、柳田民俗学を土台にした氏独自のムラ−イエ観に発するもので、その基底に、西洋の社会学の真似ではなく、日本の社会を自分の眼で独自に見なければならぬ、という思いがあり、問題の部分を全体関連的に見なければならぬという、機能主義的な方法論があったようである。広く多面的にものを見ることに力点がおかれ、仮説検証的なアプローチとは無縁であった。
有賀氏退職後は若い世代が代わる代わる単独で担当することとなったため、「多面的にものを見る」調査よりは、担当者が得意とする領域のテーマ集約的な調査実習が主体となり、調査対象も農山村にこだわらず、集落にさらに団体にもこだわらぬ多岐的なものになっていった。たっぷり時間をかけた面接調査を主とする質的分析に長年安住していたが、安田氏が加わってからは、社会調査概論の科目名で学部1、2年段階に本格的な量的調査技法の訓練が導入され、調査実習もようやくバランスのとれたものに進化していった。 社会学専攻としては理論社会学方面の訓練も必須であるから、岡田氏がこれを担当したが、彼もまた社会人類学的調査で経験を積んだ人であったため、東京教育大学での社会学教育は実態調査による実証研究偏重ということになった。それが卒業論文と修士論文に現れている。1953年から77年までに200余名の卒業生を出したが、学説研究の論文を書いたのはうち10数名に止まり、残りの実証研究の論文も文献によるものは多からず、社会調査による実証研究が主体をなしている。また、1956年から75年までに30名ほどの修士を出したが、ほとんどが社会調査による実証研究を中心とする論文であった。
調査実施前の準備作業も、調査後の整理、報告書作成も多くの集合的労力を要したが、現地での面接調査の訓練はとりわけ厳しかった。それだけに現地調査に参加した学生は、達成感に加えて社会調査を自ら手がける自信をもって帰京した。社会調査教育開発の上り坂を登る時代に当たり、今日と比べると素朴な調査実習であったが、それなりの効果はあったのであろう。