多くの人が想定する社会調査とは次のようなものであろう。調査者が、ある問題意識に基づき、調査の企画設計を行い、これに基づいて調査を実施し、結果を集計分析して、一定の結論を導く。この場合対象は多くは個人(一定の母集団を想定し無作為標本として抽出)、内容は意見・嗜好・行動(+分析のための属性)など、そして結果はカテゴリ-化の上集計分析され、見いだされた意見・行動分布などは母集団の特性として説明される。
社会調査士資格認定の科目群は、この種の調査を実施するための知識技能の習得という観点から編成され、これにいわゆる質的調査の手法の知識技能について補足的な科目が設定されている。いわゆる量的調査・質的調査の実りなき論争には立ち入らない。ここではいわゆる量的調査、私の言葉では標準化調査のデータ発掘、その分析手法の開発について、2~3のコメントを述べたい。
社会調査の必要性は、現在広く認められるようになった。しかし皮肉なことに、調査の盛行とともに調査環境の劣悪化が進んでいる。この半世紀の間に、調査の実施はますます困難になり、調査の妥当性・信頼性に疑問を持たざるを得ない調査が増加している。そもそも標準化調査の信頼性を支えてきた無作為標本の母集団代表性は、100%の有効回答が前提である。私たちは50年前有効回答90%を目標に努力していたし、実際実現したことが多かった。近年のRD調査では60%程度であろう。こうなると有効回答者と不能者とが、同じ比率で分布していると想定することはいささか無理がある。社会学者が机上で考案するデータ項目の他に、社会に蓄積されている多様なデ-タ源に注目したい。
古いがN.ロゴフの二つの年代における結婚許可申請書の、本人と父親の職業をデ-タとして活用し職業階層の開放性を実証したエレガントな研究を思い出す。日本の教育社会学で言えば人事興信録の父子の出身・学歴・職業を分析した麻生誠のエリート研究があげられる。本来別の目的で収集されたデ-タを活用する、資料変換的方法である。
これに近いが、公的統計資料の活用があろう。デュルケムの自殺研究と言う金字塔はヨーロッパ各国の自殺統計の比較から新教・旧教別の自殺率の差異を導き、失恋、失業、倒産、病気などの個人的理由を超えた社会的事実fait socialeを取り出したのであった。私はここで自殺ということの重みを考える。ある質問に接したときの政党支持とか、ある商品への嗜好と言った揺れ動く軽い選択に対して、自殺は容易ならざる人生上の決断である。デュルケムが社会的事実と呼んだのは、このことをも含意しているのではなかろうか。
私はここ20年あまり東京の社会地図の研究に携わって来た。居住地選択は自殺ほど重くはないが、人々の人生上のかなり重要な決定である。その人・家族の価値観、そし持てる社会的資源のありように強く限定された上で行われる決定であり、数千万もの人々のこのような決定の積分として、都市の空間構造、土地の社会構造に刻印されたものである。まさに社会的事実というべきものではないかと考える。
新しいデ-タ:空間データは、新しい分析手法を必要とする。私は故安田三郎氏にヒントを与えられたクラスタ-分析に、最適クラスター化のための新しい基準を導入したアルゴリズム、KS法クラスター分析の手法を開発して用いている。標準化調査はこれらを包みこんだ新データ、新分析法をも開発しつつ、調査環境の激変に対応して行かねばなるまい。(倉沢編『東京の社会地図』、倉沢浅川編『東京圏の社会地図』、東大出版会)
『社会と調査』3号より転載