2022年6月13日
見田宗介先生が急逝された。いつまでもお元気でいてくださる気分でいたから、驚愕した。そしてぼんやりと、社会学を学びはじめた日のことを思い出していた。
先生の若き日の方法論の問題提起は、残念なことに「質的データ」論の栄光のなかに置き去りにされた。私はそう論じてきた。『現代日本の精神構造』には、「統計的研究法」対「事例研究法」(あるいは「数量的アプローチ」対「質的アプローチ」)の二項対立の相剋をゆるがし、認識生産の実践においてのりこえようとする志があった。その相乗の本願を、調査研究者の何人が正面から受けとめたのか、と僭越ながら思う。10年ほど前にまとめた『社会調査史のリテラシー』(新曜社)で論じてきた断片を、あらためて『真木悠介の誕生』(弘文堂)の書き下ろしで検討し、整理している。
たとえばの一例だが、資料や素材やデータの「単位」と、理論的・分析的な「対象」とが異なることに、私たちはどれだけ自覚的か。質問紙調査のテクノロジーに慣らされてしまった思考は、この微妙だが明確な差異をときに忘れてしまう。『近代日本の心情の歴史』が素材にした「流行歌」も、ひとつひとつの曲を対象に、そこにあらわれた心情を集計しているのだと理解するかぎり、あの分析の見田先生の苦労をほんとうに評価することはできない。あの研究の対象は、「怒り」や「うらみ」や「あきらめ」の心情であるが、その単なる「分布」ではなかった。むしろ、互いの「ひしめき」ともいうべき関係性にあった。だから、曲の成分を数えあげたとしても、それだけでは対象の分析にならない。同じことは、不幸の諸類型の論文における「身上相談」についてもいえる。
しかし、私たちは「質的」の語を、あまりにも融通無碍なブラックボックスとしてつかってきた(「量的」の形容も実はそうだが)。それゆえに、多様な実践を支えた方法意識や、それぞれのテクネーにやどる力を反省的にとらえ、発展させることに失敗してきた。
昔がたりではない。いままさに尖端において、問われている課題である。
1960〜70年代のコンピュータは、けっきょくのところ量的(数字的)/質的(言語的)なデータの区分と対立の直観的なリアリティを下支えする、一定の処理能力しかもたなかった。しかしながら1980年代のワードプロセッサーの普及にはじまり、1990年代以降のインターネット空間の拡張、マウスイヤーのCPUの進化を経て、まさに高度化した。2020年代のわれわれは、テクストマイニングも画像分析も自由にできる処理能力を手にして、ネットワーク状に拡がり、集めて分析しようとすれば膨大になる資料空間のまえにいる。であればこそ、かつて多変量解析のソフトを便利だが中身がわからない利器としてつかったような安直さにおいて、Web調査なりAIなりディープラーニングなりのデジタルな新技術の利便を「活用」するだけにおわる節約や不徹底を、くりかえしてはならないのである。
私はクエッショネアサーベイのテクノロジーを、素材選択におけるサンプリング、印刷質問紙によるデータ収集、コンピュータによるデータ処理という、3つの相対的に自立した固有のプロセスの複合体として論じた。それは、私なりの「質的データ分析の方法論的諸問題」論文の受容であり、あわせて「データの質」や「フィールドとしての個人」という視点を提案することで、量/質の「保革対立」になぞらえうる「55年体制」をゆるがそうとした。
しかしながらいま、方法論の対立それ自体がぼやけ、自分の研究に関わる問題として次世代が受けとめにくくなっているようにも思う。それはけっして問題解決の幸福な結果ではなかった。むしろ方法論的思考の衰弱であり、想像力をくじく断念であり、つまりは社会調査の危機である。
だからこそ、テクノロジーの通用の利便を学ぶだけでなく、メタ方法論ともいうべきテクネーの原点にたちかえって、素材の社会的存在形態とむかいあい、われわれがとらえるべき社会とはなにかを論ずる必要がある。そして、デジタル技術の新たな専門知をもつ工学者に、われわれが必要とするデータ処理や、実現できたらよい見え方や整序の工夫を具体的に問いかけ、協働で方法を開発する交流が、もっと積極的に試みられてよいと思う。